東京日記

日々の記録

2022年5月26日 自宅周辺(晴れのち雨)

布団が軽いっていいものだ。夜中も全然寒くなかったし、なんで、もっと早く冬物の羽毛布団を仕舞わなかったんだろう。

昨日と同じ朝食を食べ、近所の喫茶店へ。途中の道沿いにあじさいがたくさん咲いていた。木や花に疎いので、桜もあじさいも咲くまで気付かない。

茶店で朝食とほとんど変わらない内容のものを食べる。こっちは小麦のパンだけど。懐かしい感じの、サンドイッチがバラバラにならないように刺すやつ(ピックって言うのね)の先が、こっちに向けられた状態でテーブルに置かれて、刺さないで、と思う。むしゃむしゃ食べた後は、ひたすら作業。昼間の時間のお客さんの大半はじじばばで、接客が限りなく介護に近づいている。たぶんその線引きはない。私も介護をされている。4時間以上居座って、1000円しか払っていないのに。出来るだけ負担をかけない被介護者であろうと、空いたコップを片付けやすいところに置いて席を立つ。

日が暮れる前に公園に寄って、今日も犬に思わせぶりな態度を取られて喜ぶ。ちびっ子がムクドリを追いかけまわす。

そろそろ雨が降りそうな雰囲気。

それにしても日記というメディアは不思議なもので、現実に起きたことを題材にしたフィクションなのだけれど(映画で言えばドキュメンタリー)、何を書くか書かないか選択する、編集する、そういったことをする以前に、どのタイミングで書くか、ということだけで、全然違うものになってしまう。

一日の終わりに書くと決めてしまえば、比較的安定したものになりそうだけど、例えば、3日分まとめて書くとか、1日の間に少しずつ何度も書くというのではだいぶ違う。

意識して編集しなくても、想起するまでの時間の差で記憶の書き換え具合も変わるだろうし(睡眠を挟んだかは大きい気がする)、その後に起きる出来事を知ったうえで書いているのか、知らないで書いているかで、本質的な違いが生まれる。

例えば、「雨が降りそうな雰囲気」までは、26日の夕方に書いたものだ。たまたまこれを書こうという気になったので、その時点でメモにして、寝る前にそのままの内容で公開しようとしていた。

その後、家に帰って少し時間が経ってから、お酒が飲みたくなって、酎ハイを買いに外へ出た。それで、思いがけず雨に降られた。

この日記の途中までは、その後雨に降られる自分を知らない私、後半は、雨に降られて、「雨が降りそうな雰囲気」とは今さら書こうとは思わない(でもすでに書いてあったから残しておいた)、そして、さっきの内容では今日の日記は終われないな(天気の部分も書き換えなくてはいけないし)と、書き足そうと思った結果、こんなことを考えている私、の二つに分かれている。

こんなことを考えないで、本当はお酒を飲んで、本をゆったり読むはずだったのに。